石はもしかしたら、わたしたちが世界を感知するためのメガネかもしれない。地質学者、人類学者、社会学者、哲学者、芸術家、批評家、小説家、たくさんの人たちが石を通して世界をのぞき見ている。

いし[石]一. 石というのは、岩よりも小さく、砂よりも大きい、鉱物質のかたまりのことである。何らかの原因で岩が割れていくらか小さくなったものである。特に小さな石は小石と呼ばれる。(なお、石より小さいが砂よりも大きいものは砂利などと呼ばれる。)
-新村出(2009). 広辞苑第六版 岩波書店

いし[石]① A. 岩の小さなかけらが風化したり、流水で角がとれたりしたもの。(砂より大きく、普通、持ち運び得る大きさの物を指す。また、広義では砕石を含む)
-山田忠雄、柴田武 他(2020). 新明解国語辞典第七版 三省堂

いし[石]1. 岩石の小片。岩よりも小さく、砂よりも大きなもの。
-松村明 他(2020). デジタル大辞泉 小学館

それはただの小石。世界中にある数百万個の中のたった一つの石。世界の海辺で波のリズムにのって前へ後ろへ転がる石、川岸に積み重なった石、あなたの庭の小道に並べられた石、そんな無数のなかのたった一つの小石だ。だが、その小石は、他の幾多の仲間と同じように、物語を秘めたカプセル。なかには数え切れないほどの物語が詰まっている。使い勝手のよいサーディンの缶詰よりもぎゅうぎゅうに。
-ヤン・ザラシーヴィッチ(2012). 小石、地球の来歴を語る みすず書房 pp.2

私には幼稚園くらいのときに奇妙な癖があった。路上に転がっている無数の小石のうち、どれでもいいから適当にひとつ拾い上げて、何十分かうっとりとそれを眺めていたのだ。広い地球で、「この」瞬間に「この」場所で「この」私によって拾われた「この」石。そのかけがえのなさと無意味さに、いつまでもふりえるほど感動していた。
-岸政彦(2016). 断片的なものの社会学 朝日出版社 pp.6

ある集落で車を止めて浜辺に降りると、丸い小石の浜は、波が寄せる度にカラカラと寂しげな音を立てていた。無数の石の中から、ふと目についた石ころを拾い上げた。小さな木星のような石。砂のような色がだんだん模様になっている。(薬石と呼ばれる石。微量の放射線が出ていて、地元の人はお風呂にいれるのだという)
浜辺には色や形、様々な石が転がっている。そのひとつひとつが別々の場所で何億年も前に生まれ、地層からはがれ落ち、コロコロと転がりながら膨大な時間をかけ、この欠片になり、今も目の前で波によって少しずつ削られ、この手の中にある。小さな石が持つ時間感覚の巨大さに畏れを感じてしまう。
(中略)
周囲を見渡すと、目につくあらゆる物には、それぞれ既に意味があり、僕たちは疑う事なくそれらをその意味で使い生活している。
そう考えると、石は今でもただの石であり、それだけでは意味や価値はない……ということが、ある意味ですごい事なのではないかと思えてくる。それぞれの石に価値を与えるのはそれを拾い上げた人間であるということ。小さな惑星のような石ころは、宇宙の欠片であると同時に、その内側に無限の宇宙を閉じ込めているのではないか。
-下道基行(2016). 新しい石器/New Stone Tools SHITAMICHI Motoyuki WEBより

ある日、新潟のある作家から東京のわたしのところへ、書留で「石」が送られてきた。こぶしほどの石を、細い針金で縛り荷札をつけて、送られてきた「作品」である。別段、特殊な石には見えず、どこにでもころがっていそうなものだが、わざわざ針金で縛りつけた作家の作為的な意図物ということで、受け取る側のわたしは、否応なしに、これをまざまざと見まわしたり、送り主の意図をいろいろと思いめぐらすこととなった。そのあげく、わたしは、どう見てもこれは単なる「石」であって、それ以上でもそれ以下でもない、「定められた概念」としてのそれであることを確認するにいたった。ということで逆に、これはいかなる「石」の概念からもズレた曖昧な自然な石にあらず、その実、送り主の観念の凝固物という形においての、情報的な「石」であることに次第に気づいたわけである。「石」は石を語らず、送り主の意図や観念を示すだけのものになっているからと言える。
石の話で思い出すのだが、あるときある作家はまた、多摩川の川辺に無数にころがっている石の世界に入り込み、石ころに定められた数字をペンキで書き評していた。作家の意図を表すべく数字に借定されると、石ころは、己の表情と言葉を抑えられ、「定められた数字」の顔となり、自らの用紙が数字の背景に隠れてしまうのだった。このとき作家によって定められた数字に化けた「石」は、それゆえ自然な石の世界から切り離された皮相的な存在となり、対象化された断片、概念化された物、つまりは作家の表象物としてそこにあることになったのである。
-李禹煥(2000). 新版出会いを求めて 美術出版社[初出(1971). 出会いを求めて 田畑書店]pp.9-10

たとえば河原にあるような一つの石。ときとしてわれわれはそのようなものに完璧さを感じとることがある。もちろんそれは、人工物に対して思う完璧さとはまったく違ったものである。それは”関係”の世界の構築性のかなたに、関係が断たれていると感じとったときに一挙に発生するものである。それは、先取りされた忘却であり、意識に重くのしかかるばかりではなく、全身にまで感じさせる実存性の重量なのである。
-高松次郎(2003). 不在への問い 水声社 pp.181[初出(1972). 藝術新潮 通巻273号 新潮社]

1930年代に、20世紀の最も先見的な人類学者であるA・アーヴィング・ハロウェルは、北部中央カナダの先住の狩猟・わな猟民アニシナアベ別名オヴジワの人々のもとで調査を行っていた。そこで彼は、ベレンズ川のアニシナアベの首長ウィリアム・ベレンズと交友を深めた。
(中略)
言語学者によって体系化されたオブジワ語の文法で、「石」にあたる単語がいのちなき存在ではなく、いのちある存在に対して通常用いられるクラスに属するもののように思えたこという観察に促されて、二人は石の話に立ち戻った。ハロウェルはそれを聞いて途方に暮れ、「私たちが見ている周りのすべての石は生きているのだろうか?」と尋ねた。長い間考えた末にベレンズは、「いいや、でも、生きているものもある」と答えた。その答えは、いつまでも心に消えない印象を残したと、ハロウェルは回想している。しかし、ハロウェルはそれをどう理解すればいいのかがわからなかったのである。
(中略)
モノがいのちを所有し、いのちはモノの中に隠れて、モノを世界の舞台の上で動かす秘密の成分となっているというような話ではない。むしろ、かたちを生じさせ、ある一定の時間存在させるために、世界を貫いて流れている物質の循環とエネルギーの流れの見えない力としていのちを考えなくてはならない。したがって、いのちが石の中にあるということではなくなる。むしろ、石がいのちの中にあるのだ。
-ティム・インゴルド(2020). 人類学とは何か 亜紀書房 pp.23-30

作業中:2021/02/20

Credit

対象:石
方法:石についての文章の書籍からの抜き書き
観察:2005年6月〜
研究:2019年2月〜