生きられている場

 2017年から2019年の3年の間に計8回上海を訪問し、数回にわたって「老街」を歩いた。たまたま宿泊したホテルの位置していたこの地域の生活風景に強く惹きつけられたのが始まりだった。老街は、およそ半径約1kmの領域で、唐時代から商業の集積地として発展し、城壁によって囲い取られて上海県城として成立した古い地区だ。現在は低所得者層の住居密集地域として、いわゆるスラム化している。中国は土地が国家所有であるため、個々人は使用権だけを借りて土地使用する制度となっていて、その影響から、建物が隣地建物の上に乗りかかることや、道路にも私有物が並び、路上で食事をする風景などが当たり前のように見られる。

上:現在の旧上海県城の航空写真 / 下左:19世紀初頭の上海県城図 / 下右:20世紀初頭の上海県城、新北門付近

場の原型
 3人の女性が路上のリヤカーに腰掛けて輪をつくって会話している場面に出会った。こうした人の「居方」が、私たちの都市と建築の「場の原型」なのではなかという予感があった。上海では、開発と慣習の食い違いや、都市化とスラム化の間で生じる不都合を、人々が場当たり的に楽しみ、どうにかクリアしようと工夫する姿があらゆるところにあふれている。そんな人の欲求が直接的に「居方」として現れる姿に強い興味をいだいた。日光にあたって過ごし話す姿や、公私の区別のあいまいな様子など、街と個の空間のあいだの奥行きを持った境界が、生々しい生活の場として自由に使われている様子が浮かび上がってきた。

生活することは実ワ、表現する、モノを作るのと同じです。
-石山修武(2017).セルフビルドの世界 筑摩書房 pp15

 生活の工夫・歩き心地・空中への意識・仕事と暮らしの関係・音や声と香りなど様々な現れから、都市と建築に「人が生きているということ」の実感と気づきがあった。特に、思い思いの方法によって自由に屋外で過ごす人たちの「居方」とその風景は、個々の暮らしの集合が都市空間となって現れることを証明するように「人が生きている」空間をたたえていた。そうした人の居方は、温暖多湿な気候・国家による土地所有・日の光を求める慣習・集まって話す文化・密集した老街の都市構造・水場の衛生環境に対する工夫など、中国と上海における固有の条件が折り重なって生まれているが、最も普遍的な人の欲求と感覚に根ざした風景なのではないだろうか。

 街を歩いていると、通りにキッチンが突き出ている風景が見られる。これは上下水道などの生活インフラが建物奥までは未整備であることへの、ごく自然な対応だと考えられる。キッチンを通りに出すことで、排水をそのまま道路側溝の排水口に流すことができ室内の衛生環境が保たれ、室内で火を使う危険性を回避できるというよう合理性が内包されている。同じように、道端で歯を磨き洗髪をし、洗濯をする姿も見受けられた。不潔になりがちな水場を日の光のあたる場所に設けることは、文化的、慣習的にも好まれている。

 建物内部からの要求が、外部の人や物の欲求に関係しあってかたちづくられた風景もある。水場のすぐ上部に干された洗濯物は、日光に加えて、壁面に設置されたエアコン室外機からの風を受けて乾かされていた。おそらく偶然に生まれた洗濯物にとっての合理的状況だが、室内の空調・限られたスペースの利用・水場・洗濯物干しといった、それぞれの合理が合成されて生まれたトンチのような風景だ。また、小さな食堂の出入口の前では、食材の野菜の下ごしらえをする様子が、鑑賞され、話題となることで老人たちが、おそらく毎日のように集まっている。物たちの「居方」も、人の「居方」に複雑に関係しあっている。

 街の奥に入った住宅密集地では、狭い道が部屋や庭のように使われている姿がよく見られる。幅4m程度の路地は、路上駐車した車と門扉に挟まれたスペースに、空中の洗濯物が木陰のような効果を与えて、2、3人が集まって談話するのにちょうどいい大きさの居場所をつくっている。別の場所では、同じようにして作られた居場所に、家族と近所の人たちが6、7人集まって食事する様子も見られた。それぞれの物がそれぞれの合理でそこに集まった結果に、溜まろうとする人の欲求による小さな操作が加わることで、心地よく人が溜まる「場の原型」が生まれている。

 家の前で、縁石の段差にそっと足をかけて椅子に座って本を読んでいる人がいた。道路を行き交う人の喧騒と日差しには、文字通り「背を向けて」軒先に置かれた草花にときおり目をやりながら読書に没頭している。縁石の段差によって持ち上げられた膝が、読書にちょうど良い高さとなり、くつろいだ姿勢をつくっているように見えた。また、暑い日の大きな街路樹の木陰にたたずむと、行き交う車や自転車が生む風も心地よい効果に感じた。人の身体は、縁石・道路・街路樹・交通といったような都市インフラの受容体であり、それが人の感覚に根ざした「居方」となって現れている。

 歩道もまた、街と個の空間のあいだの奥行きを持った境界として、生々しい生活の場として自由に使われている様子が浮かび上がってくる。電柱は小椅子の背となり店先の両脇に、程よい賑わいを感じさせる人の溜まりを作り、路面は心地よい熱をとどめる温床でもある。人々が日光にあたって過ごし話す姿や、公私の区別のあいまいな様子から、物や生物の「居方」までもが、それぞれの合理が関係し合成される系の中に存在している。

 かつてクロード・レヴィ=ストロースが、アマゾンの人々とその生活に向けた眼差しになぞらえれば、人・物・生物たちの居方は「具体の科学」として体系的に感知できる「器用仕事(ブリコラージュ)」の現れだ。これらの事例をわたしたちの生活と比較してみると、いかにして現代都市が、生活のみずみずしさと、小さくも豊かな居心地を放棄してしまったかいう回路も明らかとなる。
 例えば、土地所有制度の徹底は、わたしたちが他者との関係からかたちづくる身体的な所有意識と領域感覚を駆動させることを抑制している。また、現代の都市生活者としての上品な倫理観は、小さく豊かな居心地への欲求をキャンセルさせてしまう場合がある。そして、スラムクリアランスは都市の安全性の向上と衛生環境の改善などのために実施されるが、その開発は往々にして経済合理性に従うことで、本来はクリアランスする必要のない慣習・文化・固有の居心地・人などの要素までをも排除し、全く異なるインスタントでコンビニエントなものごとに置き換えてしまっている。
 上海のような、経済開発の途上にある都市でのフィールドワークは、わたしたちが都市と建築に求めていた「場の原型」を再認識させてくれる。経済原理を含めた合理の系を織りなすことはできるだろうか。現在の上海は、猛烈な速度の国家資本主義の開発圧力で、都市のスラムクリアランスとジェントリフィケーションが推し進められている。そこにあった固有の「居方」は、次々に世界のどこにでもあるオープンカフェやストリートファニチュアの風景にとって代わられている。1年後はおろか、数ヶ月後にはもう無くなってしまう「居方」の風景は、その場を更新する際のデザインコードの源泉であり、「人が生きているということ」が確かに定着した空間のプロトタイプであるはずだ。

写真:遠景となっている開発後の高層住宅街の手前、左に広大な空き地となった開発中の工事現場と、右に開発前の老街の密集住宅が並んでいる。現在の上海を象徴する風景が広がっていた。

Credit

フィールドワーク:2017年6月〜2019年9月
考察:2020年1月、2020年8月、2021年1月
図版引用:湯佛康『百変上海―SHANGHAI NOW AND PAST』(2018)上海人氏美術出版社
航空写真:Google Map

発表
2020年8月28日/よなよなzoom第9夜、まち・地域の関係性と建築/そこにある技術と動的な場
2020年10月17日/多摩ニュータウン学会第33回例会/ニュータウンの建築家たち

参考文献
榎本泰子『上海―多国籍都市の百年』(2009)中央公論新社
石山修武『セルフビルドの世界』(2017) 筑摩書房
村松伸『中華中毒―中国的空間の解剖学』(2003)筑摩書房
高橋鷹志、鈴木毅、長澤泰『環境と行動(シリーズ人間と建築)』(2008)朝倉書店
鈴木毅、高橋鷹志『都市の公的空間における「居方」の考察』(1992)日本建築学会
クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(1976)みすず書房
クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯Ⅰ・Ⅱ』(2001)中央公論新社

このフィールドワークは、首都大学東京における東京都都市づくり公社寄付講座「グローバル都市東京研究」と
中国浙江省安吉県報福鎮での観光まちづくり計画に対する提案プロジェクトに合わせて、上海を訪問した際に実施した。